じーちゃんがしんだ。きろく。

平成31年1月19日午後5時9分、じーちゃんが亡くなりました。信じられない。は〜まじか。ばーちゃんが死んでからひと月も経ってへんぞ。まじかーうおーじーちゃん…

 

正確な時間は見ていないが19日の午後3時30分ごろ、おば2から家の固定電話に電話があった。この時私は自分の部屋にいて、妹とテレビを見ながらどーでもいい話をしていた。いつもは適当に部屋のドアを開けているのだが、この時は閉めていた。我が家の電話は番号を登録すると喋り出すようになっていて、部屋の外で電話が喋ってんなーと思ったが、先述の通り扉を閉めていたので電話の声に気づくのが遅れ、二階で取る前に一階の父がとった。父は電話を切った後、私たちがいる二階に向かって何かを叫んだが、私たちは聞き逃し、「なにーー?」と聞き返した。この時父はすでに出発準備のためにバタバタしており、返答がすぐにこなくて1分ほどタイムラグが生じた。もう一度聞き返すと「じーちゃんが呼吸停止!」と返ってきた。事の重大さに飛び起きて、パジャマのまま先に家を出た。ジャージに真っ赤なパーカーだった。

病院に着いたのは10分後くらいだと思う。エレベーター出て左がじーちゃんの病室だったが、思う場所に名前がなくウロウロしていると看護婦さんが「こっちです!」と声をかけてくれた。慌てて病室の方を向くと、ヨロヨロと力なくおば2が部屋から出てきていた。病室に駆け寄り、入り口からのぞくとじーちゃんは何台ものでかい機械に囲まれて多くの人に囲まれながら心臓マッサージを受けていた。部屋に入れる雰囲気ではなく、部屋の正面の壁にもたれかかりながらじーちゃんの様子をぼーっと眺めた。ばーちゃんの時は心肺蘇生にも間に合わなかったから、間に合ってよかったような気持ちだった。

じーちゃんを見ながら母と妹に病院に着いた事、今いる場所をラインした。ラインの直後に母妹父たちも到着した。母は着くなり泣き出してしまった。ばーちゃんの時はそんな事なかったのになーと思いながら見てた。一通り家族が揃った状態で、一旦待合室みたいなところに案内された。私は黙って座っている気にはなれず何度も病室のじーちゃんを覗きに行った。まだ心肺蘇生は続いていた。この時主治医ではない若い医師から一旦説明があった。心肺蘇生を始めてから数十分経っていること、復活する可能性は0ではないので続けているが、1時間経ったあたりでまたお話をするということ。こんな感じの説明が5分くらいだった。私はじーちゃんには何としてでも生きといてもらいたかったので、もし延命をするしないの話をされたらここでするって言った気がするな。最後に声をかけることはできますか?って母たちが尋ねた後、先生は少し困って迷いながらもオーケーしてくれた。ほんとは邪魔になったんだと思う。でも許してくれたのは感謝してる。泣き叫ぶ母たちに遠慮して私は部屋に入らなかった。入り口から見てた。

この説明の後からおば1とイトコ2が到着した。おば1はばーちゃんの時に1番取り乱しており、今回もそうだった。心臓マッサージをする看護師さんたちを押しのけるようにじーちゃんのそばに行き、声をかけていた。しばらくそうしていたら主治医が到着した。先ほどの若い医師が主治医をに別室呼び、話をしていた。この時父は外の看護師に、この状況を尋ねていた。看護師は心肺蘇生をしている間も脳は壊死し続けていることを説明してくれた。私はこのあたりで弟に電話をかけた気がする。すぐに弟は電話に出た。「じーちゃんやばい感じ」と告げると弟は「まじかー…。」と言ったあと、ばーちゃんの件もあったので今この段階で帰るのは難しいと言った。気持ちはわかったのだが、正直今のじーちゃんは心臓マッサージで生かされている状態だった。多分やめると心臓止まる。この状況を伝えるかどうか非常に迷ったが、伝えなかった。私も一縷ののぞみにかけたかったんだと思う。確定してからまたかけるわと言って切った。そうこうしてると主治医が部屋から出てきて家族が呼ばれた。私とイトコ2はそのままじーちゃんのそばに残り、他の家族で説明を受けた。心臓マッサージを受け続けるじーちゃんの横で私はじーちゃんの左手をペチペチと叩きいろいろ話した。ばーちゃん死んでからまだひと月たってないぞーとかイトコ2が高校通ったよーとかじーちゃんがんばれーとか。手は冷たくなっていったが、死人の手とまではいかなかった気がする。ペチペチ叩き、がんばれーと言ったが、目の前のモニターの心臓の線は度々0を表示しており、多分心臓マッサージをやめたらもうダメなんだろなーとは思っていた。わかってはいたが、この線ってなんですか?と頑張ってくれている看護師さんに聞くのも気が引けて、聞かなかった。いとこと部屋に取り残されて随分時間が経ってから、主治医と家族が入ってきた。そして心臓マッサージが止められた。あー、もうこれで終わりかと思った。まぁ肋骨折れまくってるやろなーとかぼんやり考えてた。

部屋から一旦出たが、すぐに確認のため呼び戻された。ペンライトで主治医が瞳孔を確認して、「17時9分、ご臨終です。」と告げられた。テレビドラマみたいだなと思った。

 

じーちゃんが死化粧を施してもらっている間、待合室に移った。変な話だが、ばーちゃんのお葬式をついこないだしたばかりだったのでみんななんとなく流れはわかっていた。すぐ葬儀屋や仕事先、親戚に電話をかけたが、みんな動転してしており、一軒かけ終わるごとにしなくてもいいような世間話を挟んでしまっていた。しばらくすると看護師さんが荷物の片付けをいいですかと言ったので、私が代表して片付けにいった。パジャマとか靴とか諸々。大きなポリ袋と台車を貸してくれた。有り難く使用させてもらうことにし、ゴロゴロと駐車場まで持ってった。休日の病院はインフルエンザ対策として受付窓口で見舞い先の記入、マスクの配布、アルコール消毒をしており、この人受付に座っていた人は面識のある人だったように思う。しかし完全にプライベートで訪れたため、なんとなく声をかけるタイミングを逃しそのまま通り過ぎた。荷物を入れ、病院に戻るとすぐ、心肺蘇生をしてくれた看護師さんの1人に会い、台車を代わりに押してくれ、一緒にエレベーターであがった。急だったですねと声をかけられた。何か話を続けなければと思ったが、言葉も出てこず、静かなまま目的の階についた。おば1とイトコ2はこのあたりでじーちゃんの家の片付けのために離脱したと思う。待合室に戻ると、母たちはじーちゃんのCTを撮ってくれと医師に伝えてたみたいだった。2回目の説明の時に、希望があればCTを撮ることができると言われていたようだった。

CT撮影はすぐ終わったが、そのあとの説明まではだいぶ時間が空いたように思う。この時間でたびたびじーちゃんの顔を見に行った。布団をめくり、顔を目おでこをペチペチと叩いた。その間待合室では、母のいとこやばーちゃんの兄弟なんがが駆けつけてくれて、話をしていた。しばらく話をしていたが、看護師に呼ばれナースステーションで主治医から説明を受けた。この時父と妹は今回の急変原因や急変に至るまでのストーリーにある程度のあたりをつけていたようで、主治医からの説明の後いろいろと質問していた。説明の後、また待合室に移った。

待合室に移ったあと、ばーちゃんの時と違って妹はなんだか怒っていた。妹の考えるストーリーだと病院側に落ち度があるということしか考えられないようだった。解説を聞きながらなるほどと私も思った。まぁなんだ、3回目の先生の説明の時に、妹が質問すると先生が微妙な顔をしていたからなぁ。なんとなく分が悪いと思っていたのだと思う。私は1人立っており、途中でじーちゃんの顔を見に行ったりした。一通り説明が終わり、全員退出してまた待合室に戻った。葬儀屋さんにお迎えの連絡を入れて、霊安室に行った。エレベーターに乗り切れなかった私は主治医と一緒に階段を駆け下りたが、この間会話はなかった。階段を下りきった時、ちょうどエレベーター組と会った。霊安室まで続く長い廊下を歩きながら私はふとこの時手元あった死亡診断書を何気なく開いてみた。見ると、先ほど医師から受けた説明とは違う死亡原因が書いてあって、思わず笑ってしまった。えー?先生、これ、違うんじゃね?と思ったが、もう死んだのには変わりなく、とりあえず妹に無言で見せた。妹も思わず笑った。気の抜けたような笑いだった。えー…うそやん、みたいな。父にも見せたが老眼鏡を忘れた父は読めなかったようだ。仕方がない。

 

ばーちゃんの時は家の片付けに行っていたので霊安室に入れなかった。今回初めて入った霊安室。倉庫のようなところだった。医師、看護師も一緒に部屋に入り、葬儀屋が来るのを待った。祭壇の前に寝かされたじーちゃんに初めは誰も近づかなかった。誰も行かないのかなと思ってたらばーちゃんの弟が近づいて、顔を見て手を合わせた。母は最後まで近づかなかった。私は無言でじーちゃんの体をつついたり、ペチペチと叩いた。お腹がとても張っていた。この時午後7時40分くらいだったと思う。実はこのあとじーちゃんのねーちゃんが入院する病院に行かねばならなかった。面会時間は9時まで。移動時間を考えるともう出ないとまずくて、妹を誘って先に霊安室を出た。病院を出るまでの長い廊下を歩きながら、妹が看護師さんに礼を言いそびれたと言うので一緒に霊安室に戻った。戻る途中、霊安室の先に葬儀屋の車が来たので、見送りまですることにした。じーちゃんが乗せられていくのを見たあと主治医達に礼を言って、元来た廊下を駐車場の方へと歩いて行った。

 

父母はこのまま直接葬儀屋との打ち合わせにいくと言うので、母に死亡診断書が今ここにあることと、葬儀屋に死亡届を任せると走り書きのように書かれるので母に書かないかと言ったが、頭がぼんやりしている母は葬儀屋との打ち合わせに死亡診断書が必要だと言うことをよく理解できず、曖昧な返事をしてそのまま打ち合わせに出てしまった。追いかけて渡そうかと思ったが、今渡しても葬儀屋にそのまま渡しそうだったので、一旦家に持ち帰った。

家に帰りすぐじーちゃんのねーちゃんの病院に行く準備をした。準備が終わると台所のテーブルで死亡届を記入した。普通のボールペンでもよかったが、線がはっきりと濃く出ないのが嫌いなので、濃い黒の出るジーノックを使った。私のお気に入りのボールペン。じーちゃんの名前と住所、生年月日、死亡した日、本籍地などを書いた。書き終わってすぐに家を出て、死亡届をコピーするためにコンビニに寄ったところで父から電話がかかってきた。葬儀屋との打ち合わせで案の定死亡届が必要だったようだ。知ってたわい!と思って、すぐにコピーとってじーちゃんの家に持ってった。玄関先でポンと渡してじーちゃんのねーちゃんの病院に行った。

到着は8:40分くらいだったかな。じーちゃんのねーちゃんは寝ていたが、そっと体を触るとすぐに目を覚ました。耳が遠くなっており、左耳でないと会話が聞こえないが、この日は左耳を下にして寝ていた。少し頭を持ち上げ、左耳元で声をかけると反応があった。「元気ですか」「何人兄弟ですか」「お父さんの名前は」「お母さんの名前は」という質問を投げかけて、どれも正解を返した。もう90も過ぎて5人兄弟で唯一生き残った存在だというのに頭はとてもしっかりしていた。さすがに入院が長引いているので、今日が何日だとか今が何時かというような質問は苦手のようだった。15分程度滞在し、ビデオカメラを回して帰った。ビデオ撮影をしているとき、じーちゃんももっととっとけばよかったなーなんて思った。帰り道でも妹はまだまだ病院の対応について話したりないようで、ここは姉として黙って聞いてやらねばと思いながら運転した。途中、母へ電話をかけ何かいるものを尋ねた。食べ物をと言われスーパーを回ったが、時間的に総菜はどこもなかった。しかたなくピザを頼んで買って帰った。家族はみな腹をすかしており、足らなかったかなーなんて思いながら食べた。この日はおば2と私が祖父のもとに泊まり込むことになった。おば2は祖父の横で寝ずの番をし、私は違う部屋で夜を明かした。電気を消す気にはなれなかった。4時ごろにコンビニへ行きカフェラテを買って帰った。夜明けの雨がひどく冷たかった。

 

翌朝8時には母がきて交代した。家に帰ると心身の疲労からそのまま寝込んでしまい、通夜ぎりぎりに駆け込んだ。通夜にはばーちゃんの時と同じような顔ぶれの方々にご参列いただいた。何回もすみませんというしかない私たちだった。途中、弟と連絡を取り、通夜が終わった直後に駅まで迎えに行くことになった。せっかくなので妹といとこ1,2をつれていき、弟を拾った後に葬式会場に行く前にじーちゃんのねーちゃんのところにいった。向かう途中、弟はしきりに妹になぜじーちゃんがこんなことになったのかずっと尋ねていた。弟なりに疑問に思っているようだった。

じーちゃんのねーちゃんのとこに5人そろっていくのは初めてのことだった。昨晩と同じように寝ていたが、眠りが浅いのか、弟が軽く触っただけで起きた。「誰だかわかる?」という質問には間違えたが、受け答えはしっかりとしていた。私がカメラマンとなり、みんなで写真撮影をして帰った。祖父のもとへと 急いだ。会場に着くと親戚が通夜ふるまいと食べていた。ばーちゃんの時とちがい少し酒も出たようで、何人か酔っぱらっていた。まぁじーちゃんも酒好きだったし、しょうがなかった。

帰ってもなかなか寝付けなかった。布団でスタホをいじっていると、いとこからお別れのお手紙を一緒に考えてくれというお願いがきた。ぽちぽち作って送信したところで寝た。

 

式は滞りなく終わった。祖父の部下だった方が、「棺に花を入れてもいいですか?」と聞かれたら。どうぞどうぞと返事をした。じーちゃんは好かれてたんだなぁ。

 

そのまま火葬場に行った。二ヶ月連続の火葬場。じーちゃんの骨はとてもしっかりしていた。顎の骨なんか、みんな見た時驚きの声が上がった。死ぬわけないと思ってたんだろなー。

 

悲しい。でももう書く気力がないのでこの辺で終わる。