大往生でした。

大伯母が亡くなりました。96歳でした。

小さな小さな集落で一生を過ごしたおばは、生涯独身でした。弟にあたる私の祖父一家と同居し、ひとまわり違う弟嫁と小競り合いをしながら楽しく暮らしていました。姪たちにとっては、育ての親のような、私にとってはもう1人のばーちゃんのような感じでした。

 


親戚筋では1番年上だったため、何年か前から「いつか亡くなるんだろうな。嫌だなぁ」というぼんやりとした想いが、顔を見るたびに浮かんできて困っていました。数年前に軽い脳梗塞をして入院したときは、いよいよだろうかと思っていましたが、ベッドの上でとても意識ははっきりとしており、とにかく早く帰りたいと訴える元気はありました。

 


しかし退院後すぐに骨折。それからはずっと入院でした。テレビもない病室でどんどん言葉が減っていくおばを見ながら、なんとか連れて帰れないかと思っていましたが、おばの家は空調が整っておらず、高齢の身には負担が大きいと思えたため、これもおばのためと思いそのまま入院させていました。

 


しかしおばが入院中、思いがけず弟嫁、そして弟と相次いで亡くなり、1番年上のおばが生き残るという事態になりました。私は弟たちが亡くなった事を言い出せず、「もうすぐ帰れるようになるよ」と励ますだけでした。

 


ベッドの上で起こしていた上半身は、やがて寝返りをうつ程度にしか動かなくなり、体はどんどん痩せていきました。しかし、言葉こそでないものの、人を認識することはでき、簡単な問いかけには頷いていたおば。見舞客が減った事を気に病んでいないかと、心配していました。ちょうど世間は新型コロナウイルス感染症にピリピリしており、おばの入院先も面会謝絶でした。会うことが許されない状況で、おばが何を思ったのか、もう知る術はありません。


11月29日。病院から電話がありました。

酸素を10リッター入れている。


知識がおありの方は、この数字がいかに絶望的かおわかりでしょう。聞いたときは「もうだめだ」と思いました。


会いに行けないけど、生きている。


みんなの中でそんな存在になりつつあったおばが、立場を変えようとしています。すぐさま会いに行かなければと思ったのですが、どこか冷静な私たちとは、「行ってもどうせ会えないよ」と思ってしまいました。

 


翌30日。病院に掛け合って、姪の中で都合のつくものだけ、面会を許されました。手を握ると、嫌そうに追い払われ、「あぁ、生きているなぁ」と思ったそうです。酸素も奇跡的に3リッターとなり、持ち直したかに思えました。

しかしその1時間後、容態は急変し、眠るように息を引き取りました。最期、呼吸が止まりましたが、心臓だけは動いており、私たちはまだ温かいおばの手を握ることができました。

 


小さな小さなおばです。初めから、無理な延命しないと決めていました。あばら骨が折れるような心臓マッサージは不要です。大往生です。苦しまないのが1番だと思いました。

 


通夜葬儀は近親者で済ませました。

普通の体格なら入りきらないはずの骨壺に、おばは全て入ってしまいました。小さな小さなおばでした。

可愛らしい花柄の骨壺は、おばが好きそうな柄です。

 


外出嫌いのおばでしたが、5年ほど前、突然我が家に来てくれました。遺影はその時の写真です。ちょっとピンボケですが、自然でいい笑顔です。新しい世界でも、この写真のように、笑顔で暮らしてくれることを願っています。