ばーちゃんがしんだ。おもいでとおもい。

私は初孫だった。悪気はないが口の悪いばーちゃんは、私が生まれた当日に病院に見に行き、「鼻が低い」と言い放った。映像に残っている。

お宮参りの日はばーちゃんに抱えられていた。父がビデオ撮影をしていたが、緊張していたばーちゃんの顔はこわばっていた。うける。

毎年みんなの誕生日には外食の予定を立ててくれていた。数年前からそれを言わなくなった。誕生日を忘れられた母がさみしそうにしていたのを覚えている。

そういえば私が乗っている車は、実はばーちゃんにぶつけられた。ばーちゃんの車に乗っていたいとこがそのことを証言したのだが、強情なばーちゃんは「私はぶつけていない」と言った。この辺りはくそばばあかもしれない。

来年の増税前に車を買い替える予定だった。私は運転が下手でああるが、絶対5人乗りと決めていた。ばーちゃんの家は4人家族だからだ。病院に行くときに便利だろうと思ったからだった。

 

私がばーちゃんの家を片付けに行っていたのは、ばーちゃんに快適な生活をしてほしかったからだった。いつ買ったかわからないような飯を食わないでほしかった。冷た暗い台所で飯を食うのではなく、明るくて温かいところで飯を食ってほしかった。寝るところだって、ソファではなく、ちゃんとしたベッドで寝てほしかった。だから何時間もコインランドリーで洗濯したし、たくさん寝具を買いそろえた。

家を建て替える計画だって、冷蔵庫を買い替える計画だってもっと早くに進言していた。力不足で申し訳ないが、金がなかったのでいうことしかできなかった。

たくさんしてきたことはあった。でも振り返れば、もっと強行できたことはあったと思う。ようやく動き始めた建て替え計画。ばーちゃんが死んだ今、建て替える意味があるのか?とすら思うようになった。私はばーちゃんに快適な家に住んでほしかったから、立て直してほしかったのだ。祖父の姉は施設から帰ってこないだろうと思う。祖父もガンが肺に転移している。跡継ぎはいない。じゃあ家建て替える意味あるのか?だれが住むんだ?おばちゃん、一人で住むの??問い詰めたくなるが、我慢する。みんなばーちゃんを亡くして悲しいのだ。

祖父の姉と祖父とばーちゃん。ばーちゃんが一番若くて、頭はしっかりとしていただけに、だれも予想していなかった。悲しい。今年、私はやけに死を考えていた。きっかけは同級生の死。とにかくとにかく考えていた。しかしそれでもばーちゃんが死ぬとは思ってなかった。昨日、骨になったばーちゃん。今度からは仏壇の横にばーちゃんの写真が飾られるのかと思うと、どういう気持ちでいればいいのかよくわからない。

買ったばかりの年賀状は、たぶん両親の分は喪中はがきに変えると思う。しかし私は普通通りに出す予定でいる。ばーちゃんの件は確かにあるのだが、なんというか「今まで通りのお正月」を迎えたいという気持ちもあるのだ。なので皆さん、年賀状はください笑

 

徐々に実感がわいてきた。ちょっとだけくそばばあだったので喧嘩したこともあったけど、後悔はしていない。楽しかったから。最後に背中を触ったとき、当たり前だが生きていた。ちゃんと会話もできた。うん。でももう今はいないし、これからもできない。

できたこととできなかったこと。してあげたかったこと。すればよかったこと。たくさんある。私は孫なので、子供たちのほうがショックが大きいと思う。だからこのブログで言うだけにする。

ばーちゃんがしんだ。おもいでときろく。

平成30年12月20日午前9時。ばーちゃんがなくなりました。

私が仕事に出たのが午前8時20分。病院からの不在着信が8時22分。もっとはやく気づけばよかったなぁ。病院についたのは午前9時30分。間に合わなかった。ばーちゃんが死んだ時間は、取引先にいた。

ばーちゃんは非常に活動的な性格で、明るく、友達も多かった。おしゃべりで、少し性格が悪く、人の悪口もストレートにこぼしていた。出先ではたしなめたが、家の中では好きに言わせていた。世の中のちょっと泣ける話に出てくるようなほんわかばーちゃんではなかった。

そんなばーちゃんは2015年夏に体調を崩した。毎日のように病院に送迎し、点滴をさせ、家に連れて帰った。でも体重はどんどん落ちていき、ほおもげっそりしていた。ぜったいおかしいからと、家族に訴え、病院を変えさせた。転院先で告げられた病名は高カリウム血しょう。すぐにまた大きな病院に転院し、なんとか一命をとりとめた。しばらく入院していたが、徐々に憎まれ口も叩けるようになってきて、退院。家に連れて帰ってが、依然と様子は違い、体調万全とは言えなくなっていた。

まず昼夜逆転した。夜中に起きており、朝方眠る。引きこもりの学生のような生活リズムになった。次に、大量の紙をチョキチョキとはさみで切るようになった。はさみで紙を切っていると、心が落ち着くらしい。まぁ切っているのは新聞紙だし、好きに切らせとこうと思った。私と母で切りやすいはさみと大きめのごみ箱をプレゼントした。嬉しそうだった。家事をする力も徐々に落ちていったが、この辺りは年相応だったのかもしれない。本当は早いところ家事もしなくていいようになんとか手をまわしたかったが、家族の協力が得られず、精いっぱい頑張って家に食材を運んでもらう業者を手配することまでだった。食欲も徐々に戻ってきて、以前のように外食もするようになっていたので、まだまだ周りはばーちゃんが元気と思っていたのかもしれない。確かに退院して最初の夏は、まだばーちゃん家で盆を行うことができた。


私はよくばーちゃんの家に行っていたから、ばーちゃん家が徐々にごみ屋敷化しているのを知っていた。古い間取りの家だから、採光も風通りもよくなくて、住人が積極的に動き回らないと空気が停滞するような様子だった。休みのたびにばーちゃんの家に行き、窓を開け放ち、仏壇を掃除した。冷蔵庫を開けると、何か月も前に賞味期限が切れた卵や中途半端に開封された魚の真空パックが詰め込まれており、ひどい悪臭を放っていた。状態は周りが思っている以上に深刻だった。慌てて「ばーちゃん家がごみ屋敷」と家族に訴えたが、相手にされなかった。大丈夫大丈夫と言われるだけだった。掃除機もなく、一緒に片付けてくれる人もおらず、結構憂鬱だった。それどころか、ばーちゃん家に様子を見に行ってくれることもなかった。掃除機を買わせてくれということさえも却下される有様だった。

ばーちゃんが入院した翌年2016年の夏、いつものようにばーちゃんの家で盆をするという準備をみんながしていた。私は一人反対した。今ばーちゃんの家はできる状況ではなく、ばーちゃんにもそんな元気がない。膝が悪く、立っているのもやっとだ。そう訴えた。しかし状況は変わらず、盆当日を迎えた。当日の朝、母が準備のためにばーちゃんの家に行った。そして慌てて帰ってきた。「とてもお盆ができる状態ではない」急遽我が家ですることになり、家を片付ける母。急な予定変更に激怒しながら掃除機をかける父を見ながら、私はぼーっとテレビを見ていた。散々ばーちゃん家の状況を伝えていたのにという気持ちでいっぱいだった。

盆の翌日から、両親はばーちゃんの家に通うようになった。父は庭、畑、小屋の中を大掃除していた、ひたすら物を捨てていた。今の時代、廃棄にも金がかかる。ばーちゃんはお金をすぐに渡そうとしていたが、妻の母からもらうのも気が引け、また義理の妹が難色を示していたため受け取らずにいた。しかし思った以上に処分費がかかったこと、同居のくせにごみ屋敷状態になるまで何もしなかったおばに腹を立てた私が、おばを叱り飛ばし、損をしない手間賃はいただいた。掃除をしないのなら金出しておとなしく任せといてほしかった。母は主に室内を掃除していたが、やはり追い付いていないようだった。そりゃそうだ、することが多すぎる。まぁでも現実を理解してくれただけでも良かった。掃除機は11月にこっそり買った。

それからも掃除は続いた。暮れになると寝具やこたつ布団を洗濯し、きれいにした。この時は妹も協力してくれ、一家で大掃除だった。このころになるとばーちゃんは足のむくみがひどくなり、ちょっとずつ歩くのがおっくうになってきたのか、いつもソファに座って一日の大半を過ごしていた。ソファで寝るようにもなっていたため、ソファにも毛布やクッションを敷き詰めてベッドのようにしなければといろいろ買ってきてセットしていた。途中、ソファーのわきにネズミが死んでいるのを見つけてしまい、大騒ぎになった。ばーちゃんがネズミ駆除用の薬を撒いていたのだった。予定通り駆除ができて喜んでいたばーちゃんは「ねずやつに毒食わせていちころした」と言い放った。さすがばーちゃん、口の悪さは健在だった。少しきれいになった家で過ごす冬は嬉しそうだった。

 2017年も同じように掃除をしに行く日々が続いた。しかし、行って物を捨てるたびに、ばーちゃんが「それは捨てないでくれ」ということが増えたように感じ、少し掃除に対して消極的になっていた。ばーちゃんの家はほこりなどのごみもすごいが、まず圧倒的なまでの物の量を減らさなければどうにも進まないというのに、捨てにでくれと言われる。私は「本当にいるの?いらないでしょ?」と無理やり言い込めて処分していたが、とても気が重かった。この年、ばーちゃんがソファーにいることが増えたのをいいことに、おばがばーちゃんの寝室を物置代わりにし始めた。気が付いたことにはもう遅く、扉の向こうには荷物の壁ができていた。どうすることもできず、この部屋はあきらめた。そして秋にはじーちゃんが入院し、暮れに祖父の姉が入院した。年の割には大きな病気せずに暮らしていただけに、みんなの意識が一変した。毎日病院に見舞いに行き、残された祖父とばーちゃんにも目を向けるようになり、宅配食材はやめ、宅配弁当にした。私からすると遅すぎたのだが、大きな前進ではあった。冷たく、暗い台所に立ち続けるばーちゃんを見ずに済むようになったことは嬉しかった。

 

そして今年、祖父の姉はそのまま施設に入所することになった。祖父もちょくちょく入院し、何かあったら怖いのでデイサービスを利用するようになった。ばーちゃんは相変わらず頭はしっかりしていたが、少し様子がおかしくなっていた。夏でも寒がるようになり、窓を開けることを嫌がった。食事が好きだったのに、何が食べたいかときいても「野菜炒め」としか言わなくなっていた。まぁ野菜が好きなんだろ暗いしか思ってなかった。そして鼻血が止まらなくなり、入院した。もともと持病があり、血液の流れをよくする薬を飲んでいたから、ちょっと出血が多かったようだ。ICUに入ったが、しばらくすると退院できた。

しかし冬になり、気が付くと四六時中切っていた紙も、あまり切った形跡がなくなっていた。いつものソファに座って、朝昼も電気をつけなければ真っ暗な部屋にもかかわらず、電気もつけないことがあった。むくみもひどくなり、髪もいつ洗ったかのわからないような状態で、薄くなっていた。暖房器具で低温やけどしてもあんまりわかっていないようだった。祖父は相変わらず耳が遠いので、食べたいご飯や家の様子を聞くときはばーちゃんに聞いていた。しっかりして返答はあるが、力のない声だった。12月15日、夕飯のリクエストは聞いた時も「豚汁と野菜炒め」だった。母にラインで伝えると、「また?」と言われた。私も深く考えず、「それしか思いつかないんだろう」と言った。

18日火曜、仕事を終え帰宅するとおばの車が止まっていた。家を建てる契約書をもって、我が家に見てもらいに来ていた。おばの車はエンジンがかけられ、車内のテレビの明かりが窓から見えた。ばーちゃんが乗っているんだろうと思ったが、声はかけずに家に入った。ばーちゃんはおばが出掛けるたびについていくのが好きだったが、降りるのはおっくうでいつも乗っているだけだった。家の中では契約のことについて父とおばがダイニングテーブルで話しており、私と母は早くどいてくれないかなーなんて思いながらリビングで飯を食った。おばがかえったあと、ばーちゃんが車に乗っていたことを告げると母は知らなかったようで、とても驚いていた。

翌19日水曜、ばーちゃんはむくみがひどくなったため急遽入院した。帰宅後にそのことを知らされた私は、ほーんと気の抜けた返事をした。まぁちょっと入院しただけだろくらいにしか思ってなかった。家族の連絡先に私のも書いといてと言ったが、ばーちゃんが死ぬだなんて思ってなかった。今思うと、書いといてといった割には、電話を撮るのが一番遅かったから、本当に役立たずで申し訳ない気持である。

そして明くる朝、永眠した。

ばーちゃんがしんだ。きろく。

勝手に流れる涙をTシャツの裾で拭きながらこれを書いている。ばーちゃんが死んだ。突然だった。

20日朝、家を出た直後に、知らないけれども公的機関のようなわかりやすい電話番号から不在着信が入っていた。運転中だったので気づかずにそのまま出勤した。会社についてすぐ、ちょっとした外回りに出かけた。取引先の駐車場に車を止め、建物に向かって歩いているときに、会社から電話があった。仕事に関する連絡で、へいへいと気が抜けた返事をして電話を切ったとき、一つ前に不在着信が入っていたことに気が付いた。気づいたときは不在着信から30分が経っていた。慌てて電話をかけ、ばーちゃんの調子が悪いことを告げられた。前日に入院したばーちゃん。確かに調子が悪いようだったけど、そんなに悪いとは思ってなくて、そのまま取引先に10分滞在し、急いで会社に帰った。会社に帰り、上司にばーちゃんの調子が悪いことを告げ、すぐに病院に向かった。病院から会社までは10分もかからない。頭の中では、ばーちゃんを親族で囲んで励ますような画が浮かび、医者に「今夜が山場です」なんて告げられるのだろうかとのんきなことを考えていた。

 

病院につき、広い病院を少し迷いながら目的の階へのエレベーターに乗った。総合病院で、たくさんの人が働いているというのに、たまたま同じエレベーターに乗った看護師は、先ほど電話で話した人だった。「もしかして○○さんのお孫さんですか?」と聞かれ、はいと答えると「よかった間に合って。今ご家族が先生の話を聞いておられますよ」と言われた。よかった。なんとなく想像をしていた通りだ。今晩病院に泊まれるかなとぼんやり考えていた。

エレベーターを降りると、すぐに待合室があり、医師の向かい側で、母、祖父、おば2、おば1、いとこが話を聞いていた。きっとこれからの治療方針の説明を受けているに違いない。そう思って近づくと、医師は言った。

 

「・・・では、死亡診断書を書かせていただきます」

 

死亡診断書。そうか、間に合わなかったのか。ばーちゃんが死んでしまった。おば1といとこも間に合わなかったようで、看護師さんに促されるまま病室に入り、ばーちゃんの顔を見た。すでに青くなっていた。泣きながら手を握るおば1を直視できずに、病室を出て会社に電話をした。ばーちゃんが死んだので、すみません、2~3日はバタバタしますと告げた。田舎の小さな会社なので、上司も仕事よりも家族が優先というような感じだ。悼むような声で短く了承され、電話を切った。10分ほどして父と妹も到着した。2人は医療関係者で、少し医師から説明を聞きたそうにしていたが、葬儀をどうするかが急務だった。葬儀場はいろんな理由から、すでにみんなの中で一致していたが、ばーちゃんを家に連れて帰るか、どのくらいの規模にするかは決めかねており、とりあえず私がいとこを連れて先にばーちゃん家を片付けることにした。途中、予定変更しておば1もつれていった。携帯を家に忘れてきたおばは、いとこの携帯を使って連絡を取っていた。「今日は通夜はしない。いったん家に連れて帰りたい。明日が通夜で明後日が葬式。でもそうすると葬式の日は友引。ならば通夜を2日するか。」こんな電話がおば2からかかってくる。でもおば2も動転しており、言ってることがころころと変わる。おば1はばーちゃんを家に連れて帰ることには反対だったようだが、おば2の言うとおりにすることになった。

ばーちゃんの家は言い方は悪いがごみ屋敷だった。整理しきれない荷物は、仏壇のある座敷の半分を占領しており、残る半分にはじーちゃんが使っている介護用ベッドがある。わかっていたが、本当にここに連れて帰るのかと呆然とした。タイムリミットは1時間。悩んでいても仕方がないので、とりあえずベッドを動かして、物を押し入れに押し込んでなんとか座敷をきれいにした。

ばあちゃんは葬儀屋の軽バンに乗ってやってきた。ストレッチャーからおろし、縁側から座敷に迎え入れた。おば1、おば2、いとこ、私、そして葬儀屋。5人で抱えたが、とても重かった。白い布にくるまれたばあちゃんを布団に乗せた時、おなかの上に置かれていた左手がコロンと布団の上に落ちた。とても白かったが、まだ生きているような気がしてならなかった。今思えばその時に手を握ればよかった。ばあちゃんに白い布がかけられ、葬儀屋との打ち合わせが始まった。祖父と母、ばーちゃんの故郷から親族も到着し、あれこれ決まった。祖父はもともと耳が遠く、はっきりいって話の輪に入れていなかった。数年前に作った補聴器も電池切れだったため、慌てて電池を買いに行って戻ってきたら一同はいったん解散しており、祖父と祖父のお守りの母がいた。15時には坊さんがくると伝えられた。

座敷に寝かされているばーちゃんを眺めていたが、白い布をとる勇気はなかった。なぜか右ほほに薄ピンクのシミがついていた。あとで聞かされたが、口から血があふれていたようだった。途中、母が座敷に来た。なんとなく2人にしたほうがいい気がして、そっと離れた。しばらくばーちゃん、祖父、母、いとこで家にいたが、そういえば飯を食っていないことを思い出し、飯を買いに出かけた。途中、仕事に戻るころになり、坊さんの読経には参加しなかった。確かに急ぎの仕事はあったが、本当はばーちゃんが死んだこと受け止められなかったんだと思う。結局15時から仕事に戻り、上司に報告をして18時くらいまで会社にいた。

 

帰宅してもばーちゃんの家に行く気にはなれなかった。奇しくも前日に予防接種をしており、その副作用で全身がだるかったのもあった。こたつに入り、ぼーっとしていた。母は何度も家に帰ってきて、荷物を用意したり、忙しそうにしていた。妹は仕事に出かけており、夜は私一人が家にいた。0時ごろになると、一人暮らし先から弟も帰ってきた。弟と父もばーちゃんのところに行った。母と娘2人でつくられたライングループには、休憩時間に妹から延命治療についての連絡が来ていた。心臓マッサージで肋骨、折れてたらしい。必要性はわかるし、年寄りの骨だから折れるのは承知の上だったが、折れるくらいならもういいですよと、医師に伝えておくべきだったねと言い合った。

翌朝、通夜の日が来た。朝は小雨だったが、夕方にはやんだ。通夜は夕方だったので、朝からは正直暇だった。昨晩あった副作用も軽減していた。実感のわかない私はのんきに朝からスプラトゥーンをしていた。罰当たりだが、まぁいつも通りを演じようとしていたのかなと今では思う。いい年して喪服を持っていなかったので、妹の夜勤明けに一緒に買いに行こうと思っていたが、妹が睡眠を選んだので一人で買いに行った。手ごろなものが見つかり、途中で母も合流してくれて、さくっと購入した。母と別れ、その後仕事に行った。上司に葬儀のことを伝え、少し仕事をして帰った。いつものように笑い話もし、気持ちはいつもと同じだった。

帰宅後、真新しい喪服にそでを通した。用意しておくことは、社会人としての最低限のマナーと言われ続けていたが、なんとなく購入をためらっていた喪服。まさかばーちゃんのために着るとは思っていなかった。通夜が始まると想像以上の参列者があり、ばーちゃん嬉しいだろうなーなんて月並みなことを考えていた。棺の窓からのぞく顔は、いつもの寝顔とほとんど変わらなくて、昨日あった血のシミもきれいに拭き取られていた。泣かないようにしていたが、参列者の中に見知った顔があると、いろんな思い出とセットになってばーちゃんが元気だった日のことが思い出されて、少し涙が出た。通夜が終わり、精進料理を食べながら、何度も棺の窓を開けてばーちゃんをみた。祖父はばーちゃんが入院した日の話を繰り返ししていた。高齢のため、ばーちゃんの死を理解しているか心配していたが、自分なりに理解しているようだった。この日は祖父と娘たちだけにして、みんな帰宅した。

葬式の日が来た。気温が高く、快晴だった。今まで天気のいい日は、何を洗おうかとばかり考えていた。自宅が終わったら、ばーちゃんとこにも行って洗濯しよう。掃除機もかけよう。そう思っていつも快晴を待っていた。でもいよいよ今日、ばーちゃんが焼かれるのかと思うと、時間が止まったらいいのにと思うばかりだった。葬儀は昨日と同じように進んだ。末のいとこがお別れの言葉を読んだ。しっかり読めていた。えらかった。おばたちは、しきりに私に葬儀風景を撮るように言った。だから携帯でたくさんとった。会場に鳴り響くシャッター音を不快に思った人もいたと思う。でも遺族には今この瞬間しかないのだ。これを逃すともう会うことができないのだ。そう思うと、とるしかなかった。棺のふたを閉める前、みんなで花を並べた。花が好きだったばーちゃん。たくさんたくさん並べた。ほっぺたに少し触ると、もうとても冷たかった。持病はあったが、頬がこけることはなく、最期までふっくらとしていた。霊柩車にのせられたばーちゃんの後を追いながら、火葬場へとバスで向かった。

火葬場は人里離れたところにある。眺めはきれいで、「いいとこだね」とばーちゃんに話しかけた。この日は私たちより前に人はおらず、到着後すぐに火葬の準備が始まった。いよいよこれで終わり。この姿で会うのは最後。そう思うと体が固まったし、おばたちは何度も「おかあさん」と声をかけ泣いていた。母は静かに涙をこぼしていた。ボタンは祖父が押した。通夜の晩「俺が押さないとな」と言っていた。結婚して50数年。ボケたようでしっかりしていた。祖母を見送った後、しばらく親族で歓談していた。山の上で携帯電話もろくに通じなかったが、なんやかんや考え事をしているとすぐに時間はたった。館内放送で呼び出され、収骨場に行くと、ばーちゃんが骨になったいた。骨はとてもきれいだった。大腿骨がしっかりしていると、妹が言って、少し笑った。順番に骨を入れたが、骨壺に収まり切れずに骨を割って入れた。私は瞼の骨を入れた。最後の骨はいとこ1が入れた。名前にかけた柄の骨壺だった。

最期の最後、精進あげ時、うっかりミスで、遺影も遺骨も位牌もぜんぶ家に置いてきてしまった。ばーちゃん連れて行くの忘れてた!とみんなで笑いながら飯を食った。しんみりせずによかったと思う。

帰宅後、一通り着替えたら、なんだか涙が止まらなくなった。ようやくばーちゃんがいないことの実感がわいてきた。とりあえず、忘れないように記録する。思い出はまた別に書く。

 

 

 

5×20は初めてのアリーナ席から

おめでとう、嵐。いよいよ20周年イヤーですね。少し前のブログで冷めやすいとかなんとか言ってたけどちょろい私はすぐに前言撤回します。嵐ライブツアー2018"5×20"に行ってきました。本当によかったです。

 

嵐のコンサートは転売防止のためか入場時でないと席がわからない。ジャニーズのコンサートはいつも時間ぴったりに始まるので、開園一時間も前になると入場ゲートが混雑してくる。だからまじめなファンは開園一時間よりも前からゲートに並び、一時間前後には入場している人が多い。(余談だが集団オラオラ系事務所のところはいつも30分押しくらいだそうで、はじめてオラオラに行ったときはいつものくせで開園一時間前に入場して、空席だらけの会場を見て唖然とした。)

当日の顔触れは4人。みなこれまでに嵐のコンサート経験がある者ばかりだ。グッズはプレ販売で購入済みで、当日はほぼ手ぶらに近い。優秀だ。現地集合した時刻は17時20分。いつもよりちょっと遅いが、まあ大丈夫だろう。入口も空いているし、どうせいつものようにスタンド席だ。こう信じて疑わなかった。事前のお知らせではゲート番号だけがわかっていた。J事務所以外のアーティストの会場図などを参考にしてもやはりスタンドだろうという見解で一致していた。仲間のAが先頭に立ち、入口のお姉さんにQRコードを見せる。おねーさんの機械からしゅっとチケットが出てくる。お、今年のは同じ感熱紙でもちょい厚だなと思っているとAがつぶやいた。

 

アリーナって書いてある

 

ドーム内の通路はすでに吐きそうなほどの人混みだった。妙な熱気で頭がぼんやりしていた私は一気に引き戻された。適当に握ったチケットを慌てて開く。ほんとだ。アリーナって書いてある。アリーナってどっちだ。下か上か。下か!!!流れるプールのように人がゆっくりと動いている中、思わず全員立ち止まってチケットを凝視した。すごい。初めてのアリーナだ。何塁側だろう。周りの喧騒が耳に届かないほど、頭の中をぐるぐるとアリーナの文字が駆け巡る。4人は今似たようなことを考えているはずだ。アリーナの衝撃を受け止めることで精一杯で、誰も喋らない。無言のまま立ち尽くしている。とりあえず中に行こう、時間もないし。私はつぶやいて目的の入場口を目指した。

球場内に入り、スタンドから伸びる長い階段を下りていく。まだだ、まだまだつかない。いったいどこまで行くんだろうというくらいの長い下り階段。いつもならすぐに横道に入って椅子に座ることができるが、今日はえらく遠い。やっとアリーナについた。チケットお兄さんに見せて中を案内された。アリーナ内はわかりやすく言うと二重丸のような構造になっている。一つ目の円のところにある案内看板を見ると、もう一つの円の中に入れと書いてある。すごい、こんなところ来たことない。全く知らない隣の人が自分と同じことを泣きながらつぶやいていた。指定された席は二重丸の内側から、内側の円を眺める席だった。メインステージ、モニタ、サブステージ、何もかもが肉眼で見える。すごい席だった。「アリーナ席の人は10分前には着席してください」という放送が聞こえ、席に向かう途中にトイレに向かったCを案じたが、なんとか無事に合流。あわててペンライトもセットし、本番を待った。

 

正面右方向から叫び声が聞こえた。円陣だ。もうすぐ始まる。半袖でも十分なくらいに熱い会場内が総立ちになり、爆発音とともに開幕した。

 

5×20。とにかく演出が素晴らしかった。一瞬たりとも休む暇がないくらいのコンサートだった。歌をよく見せる、ダンスをよく見せるためにはどうしたらいいかを考え抜いた2時間だった。ファンが見たいものは、当人たちが見せたいものなのか。この2点がずれていても、きっと嵐なら自分たちが見せたいものはファンが見たいものだと、引き寄せることができると思う。でも今回のコンサートは間違いなくファンが見たいものを考え抜いて作られていた。ファンが見たいものを作り出し、そして予想をはるかに超えるものだった。

アリーナというあまりにも近すぎる席は、嵐の背中を見ることが多かった。もちろんそれでもいい。嵐を追っていると、メインスクリーンやサブスクリーンは自分たちの後ろに来ることになった。でもそれでいい。双眼鏡なしで嵐をみることができる素晴らしい席だった。光が当たっていないスタンバイの様子も見ることができた。360度どこを見ても嵐がいる空間だった。最高にいい時間だった。嵐、20周年おめでとう。まだツアーは続いている。がんばれ。

 

switch買ったったったったーーー!!!

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きたで switch!!!!うぉら!!!!!プロコンも!!!!!

近所のスーパーで尼さんよりも安かったので買ってきた ( ˘ω˘ )色は黒しかなかったけど別にこの歳になると色はどうでも良い。動けば同じよ。

 

買うまでに時間があったので念入りに下調べをして、ダイソータブレットスタンド買ったり、プロコンの白い粉対策でシリコングリスを買ったりした。ガラスフィルム貼るのは失敗したけど、今の所快適にできている。ソフトはもちろんスプラトゥーン2。とても楽しい。

 

スプラトゥーンはまだ10年も経っていないソフトだ。イカとタコがモチーフのキャラクターが、絵の具のようなものをさまざまなブキを使いながら塗り合うというゲーム。コンセプト、世界観、文字フォントに至るまで細部にわたって細かく作り込まれており、他の作品に類似しないソフトだ。歳をとるとRPGがめんどくさくなってくるのでちょうどいい。

 

スプラトゥーン2はレギュラーマッチとガチマッチに分けられている。レギュラーマッチはナワバリルールで行われるが、このナワバリルールは至極簡単なルールで、1つのエリアを2チーム力分かれて塗り合う。塗った面積が広い方が勝ち。単純だ。気がつけば歯を食いしばってしまいそうになるほど力んでいる。塗った面積のパーセンテージで勝者が決まるが、0.1%の差で勝敗が決まることもあり、1人でも大盛り上がりする。(オンライン対戦)

 

ガチマッチはガチホコガリエリア、ガチアサリ、ガチヤグラの四種類にルールが分かれる。この中のガチホコがとても面白い。頭を使うチームプレーだ。

シャチホコを相手のゴールまでどちらが先に持っていくかというシンプルなルールだが、シャチホコは一体しかないので当然持った人めがけて相手が攻撃してくる。奪われないように、味方はシャチホコを持ってる人を守りながら一緒に前進する。この時、チームカラーであらかじめフィールドを塗っておくと、メンバーが敵に見つかることなく高速で動くことができるため、隙を見て手の空いている人はゴールまで色を塗っておくといい。

 

一緒に戦う人はランダムに選ばれるのだが、先日、いつものようにガチホコをしていたら私がホコを持ってしまった。正直、ホコを持つのは苦手。でも持ったなら仕方がない。ゴールまでじわじわ行ったるで!!と思っていたらなんとゴールまで味方カラーで線が引いてあった。敵チームは全員中心部でホコの取り合いに参加していたので、ゴールからは離れたところにいる。そして自分はホコを持っている。迷わず色の海に潜りそのままゴールまで一直線。開始数秒で試合を決めることができた。すごい。チームプレーを実感した瞬間だった。

 

おかげさまでガチマも無事にB帯になり、リグマ解放できた。もう野良ですることはないかも知れないが、まさかゲームでチームプレーを学ぶことがあるとは思わなかった。よかった。

 

動いてるか心配になる

心臓。

 

その昔、職場でエグいパワハラにあった。入社したばっかりだったので、どうしたらいいのかわからなくてそのまま全てを受け止めてしまった。そうすると、身体に不調が出た。メンタルならわかるんだけど、身体か〜笑える〜と思いながら当時は笑えなかったwwwwww

呼吸が揺れる感じなのよ。話しながら息が続かないし、声が声にならないのよ。恐怖や緊張で声が震えることってあると思うんだけど、あれが途切れずにもっとナチュラルというか当たり前のように揺れた呼気しか出てこないの。なんだろね。血圧測定器もなくて、別に心電図を測ったわけでもないからほんとのところはわかんないんだけど、「あ、心臓やべ」と思った。今はもうなんというか、「こうされたら、こうしよう」という自分なりの答えが出たのであんまりここまで酷い状態にはならないんだけどね。

 

でも夜寝るとき、明日も心臓動いてるかなって思いながら寝る。こんなこと考えちゃうのは、どっかもう壊れてるからなのかな〜。そんなに重い話じゃないんだよーーーー軽いんだけよーーーー!!www

 

だんだんとキーボード打つ手も重くなってきた。頭の中で話をまとめられなくなってきた。老いを感じるなぁ。明日も心臓が動いていますように。

全国のオタクに伝えたい

悩む理由が金なら買え。

 

いいか、これはとてもとても大事なことだ。市販品でもオリジナルでも同じだ。人生で何度も何度も訪れるはずの「買うかどうか迷う」機会。わかる。大半の人は毎日したくもない仕事をしてなんとかひねり出した小遣いで好きなものを買っている。金は無限にはないよな。わかる。私もそうだ。でも言わせてもらう。悩む理由が金なら買え。

 

 

お前には迷う時点で欲しいという気持ちが芽生えているんだよ。でも現実がチラついて躊躇っているんだ。そうだよな。考えてみろ。それが手に入った世界を。手元で自分のものとなった世界を。手に入らなかった時のことを考えても仕方がないぞ。手に入らなかったとしても、おそらくいつかは手に入らなかったことすら忘れる。それじゃダメだ。手に入れて、読んで、見て、その感動を噛みしめるんだ。嬉しさで両手を力強く握りしめるんだ。

 

嵐のブルレイでもいい。V6のブルレイでもいい。図書戦でも何でもいい。とにかく自分にとって良いものを手に入れろ。

良いものは人生を豊かにしてくれる。良い飯、良い服、良い家、良い友、良い仕事。良いものは別に高級なものというわけでは無い。自分が良いと思えば良いものだ。お前はそれを欲しいと思っている。すなわち良いものだと思っている。何を迷う必要がある。迷う理由が金なら買え。お前にとって金そのものが良いものなら、金を使えないだろうから仕方がない。でも金を使って手に入れる何かに惹かれているのなら、迷わず買え。人生は短い。良い時間を少しでも長く過ごせるようにチャンスは逃すな。自分を形成するものを渋ってはだめだ。自分を大事にするんだ。

 

そしてできれば好きな人には好きだと伝えて欲しい。一気に震える系記事臭がしてしまうが違う。なぜなら私はガチオタだからだ。みんなが好きなアーティスト、作家、そだな行きつけの飯屋も含んどくか。みんなみんな人間だよな。その人たちはもしかしたらギリギリのメンタルでやってるかもしれない。もしかしたら心ない声に悩まされているかもしれない。なんせみんな人間なので。オタクは早い話、ファンだ。大ファンなんだ。買うという行動ももちろん大事だ。それで首の皮がつながることもある。でも、好きだ!!という思いを伝えることも同じくらいに大事なんだ。良い本に出会った時、読めてよかったーーーー!!という気持ちになると思う。それと同じだ。言葉は力になるんだ。言葉をもらったら、書いててよかったーーーー!!という気になるんだ。

 

私もその昔、震災で頭がヒリヒリする毎日を送っていた時、いつものように神様の通販に申し込んだ。疲れ切ってたので、言い方は悪いが、この時ばかりは作業のようだった。でも届くのを楽しみにしていた。そしたら届いた中に、一筆、神様の言葉が入ってた。開けた瞬間、言葉が出なかった。神様が気にかけてくれてる。驚いたけど、嬉しくて嬉しくて、全然オタクじゃない友人に思わず話したくらいだ。そしてこの時、遠い遠い向こう側の方が、こっちを向いていたことに気がついたんだ。別に神様が冷たいとかじゃなくて、そっか、お互い人間(当たり前)だったなって。こっちのニュース、向こうにも当然届いてるんだ。そうだよな。そんで、こっちの声が届いた時、同じように嬉しいとか悲しいとか思うはずだよなって。今更だけど。

たくさんの人を相手にするから全然こっちの事は覚えていないだろう思う時がある。でも違う。たしかに構図は1対多数だが、どちらも人間。その気になればお互いだけを見ることもできるし、良くも悪くもお互いに声を届けあうことができる。もし、ずっとファンの人がいるなら是非その思いを伝えて欲しい。きっとその人は嬉しく思うはず。やっててよかったと思うはず。傷つく人を減らそう。オタクはみんなファンだ。広い広い世界で偶然おんなじものにハマったんだ。受給する人も供給する人もみんなみんな良い時間を過ごそう。