ばーちゃんがしんだ。おもいでときろく。

平成30年12月20日午前9時。ばーちゃんがなくなりました。

私が仕事に出たのが午前8時20分。病院からの不在着信が8時22分。もっとはやく気づけばよかったなぁ。病院についたのは午前9時30分。間に合わなかった。ばーちゃんが死んだ時間は、取引先にいた。

ばーちゃんは非常に活動的な性格で、明るく、友達も多かった。おしゃべりで、少し性格が悪く、人の悪口もストレートにこぼしていた。出先ではたしなめたが、家の中では好きに言わせていた。世の中のちょっと泣ける話に出てくるようなほんわかばーちゃんではなかった。

そんなばーちゃんは2015年夏に体調を崩した。毎日のように病院に送迎し、点滴をさせ、家に連れて帰った。でも体重はどんどん落ちていき、ほおもげっそりしていた。ぜったいおかしいからと、家族に訴え、病院を変えさせた。転院先で告げられた病名は高カリウム血しょう。すぐにまた大きな病院に転院し、なんとか一命をとりとめた。しばらく入院していたが、徐々に憎まれ口も叩けるようになってきて、退院。家に連れて帰ってが、依然と様子は違い、体調万全とは言えなくなっていた。

まず昼夜逆転した。夜中に起きており、朝方眠る。引きこもりの学生のような生活リズムになった。次に、大量の紙をチョキチョキとはさみで切るようになった。はさみで紙を切っていると、心が落ち着くらしい。まぁ切っているのは新聞紙だし、好きに切らせとこうと思った。私と母で切りやすいはさみと大きめのごみ箱をプレゼントした。嬉しそうだった。家事をする力も徐々に落ちていったが、この辺りは年相応だったのかもしれない。本当は早いところ家事もしなくていいようになんとか手をまわしたかったが、家族の協力が得られず、精いっぱい頑張って家に食材を運んでもらう業者を手配することまでだった。食欲も徐々に戻ってきて、以前のように外食もするようになっていたので、まだまだ周りはばーちゃんが元気と思っていたのかもしれない。確かに退院して最初の夏は、まだばーちゃん家で盆を行うことができた。


私はよくばーちゃんの家に行っていたから、ばーちゃん家が徐々にごみ屋敷化しているのを知っていた。古い間取りの家だから、採光も風通りもよくなくて、住人が積極的に動き回らないと空気が停滞するような様子だった。休みのたびにばーちゃんの家に行き、窓を開け放ち、仏壇を掃除した。冷蔵庫を開けると、何か月も前に賞味期限が切れた卵や中途半端に開封された魚の真空パックが詰め込まれており、ひどい悪臭を放っていた。状態は周りが思っている以上に深刻だった。慌てて「ばーちゃん家がごみ屋敷」と家族に訴えたが、相手にされなかった。大丈夫大丈夫と言われるだけだった。掃除機もなく、一緒に片付けてくれる人もおらず、結構憂鬱だった。それどころか、ばーちゃん家に様子を見に行ってくれることもなかった。掃除機を買わせてくれということさえも却下される有様だった。

ばーちゃんが入院した翌年2016年の夏、いつものようにばーちゃんの家で盆をするという準備をみんながしていた。私は一人反対した。今ばーちゃんの家はできる状況ではなく、ばーちゃんにもそんな元気がない。膝が悪く、立っているのもやっとだ。そう訴えた。しかし状況は変わらず、盆当日を迎えた。当日の朝、母が準備のためにばーちゃんの家に行った。そして慌てて帰ってきた。「とてもお盆ができる状態ではない」急遽我が家ですることになり、家を片付ける母。急な予定変更に激怒しながら掃除機をかける父を見ながら、私はぼーっとテレビを見ていた。散々ばーちゃん家の状況を伝えていたのにという気持ちでいっぱいだった。

盆の翌日から、両親はばーちゃんの家に通うようになった。父は庭、畑、小屋の中を大掃除していた、ひたすら物を捨てていた。今の時代、廃棄にも金がかかる。ばーちゃんはお金をすぐに渡そうとしていたが、妻の母からもらうのも気が引け、また義理の妹が難色を示していたため受け取らずにいた。しかし思った以上に処分費がかかったこと、同居のくせにごみ屋敷状態になるまで何もしなかったおばに腹を立てた私が、おばを叱り飛ばし、損をしない手間賃はいただいた。掃除をしないのなら金出しておとなしく任せといてほしかった。母は主に室内を掃除していたが、やはり追い付いていないようだった。そりゃそうだ、することが多すぎる。まぁでも現実を理解してくれただけでも良かった。掃除機は11月にこっそり買った。

それからも掃除は続いた。暮れになると寝具やこたつ布団を洗濯し、きれいにした。この時は妹も協力してくれ、一家で大掃除だった。このころになるとばーちゃんは足のむくみがひどくなり、ちょっとずつ歩くのがおっくうになってきたのか、いつもソファに座って一日の大半を過ごしていた。ソファで寝るようにもなっていたため、ソファにも毛布やクッションを敷き詰めてベッドのようにしなければといろいろ買ってきてセットしていた。途中、ソファーのわきにネズミが死んでいるのを見つけてしまい、大騒ぎになった。ばーちゃんがネズミ駆除用の薬を撒いていたのだった。予定通り駆除ができて喜んでいたばーちゃんは「ねずやつに毒食わせていちころした」と言い放った。さすがばーちゃん、口の悪さは健在だった。少しきれいになった家で過ごす冬は嬉しそうだった。

 2017年も同じように掃除をしに行く日々が続いた。しかし、行って物を捨てるたびに、ばーちゃんが「それは捨てないでくれ」ということが増えたように感じ、少し掃除に対して消極的になっていた。ばーちゃんの家はほこりなどのごみもすごいが、まず圧倒的なまでの物の量を減らさなければどうにも進まないというのに、捨てにでくれと言われる。私は「本当にいるの?いらないでしょ?」と無理やり言い込めて処分していたが、とても気が重かった。この年、ばーちゃんがソファーにいることが増えたのをいいことに、おばがばーちゃんの寝室を物置代わりにし始めた。気が付いたことにはもう遅く、扉の向こうには荷物の壁ができていた。どうすることもできず、この部屋はあきらめた。そして秋にはじーちゃんが入院し、暮れに祖父の姉が入院した。年の割には大きな病気せずに暮らしていただけに、みんなの意識が一変した。毎日病院に見舞いに行き、残された祖父とばーちゃんにも目を向けるようになり、宅配食材はやめ、宅配弁当にした。私からすると遅すぎたのだが、大きな前進ではあった。冷たく、暗い台所に立ち続けるばーちゃんを見ずに済むようになったことは嬉しかった。

 

そして今年、祖父の姉はそのまま施設に入所することになった。祖父もちょくちょく入院し、何かあったら怖いのでデイサービスを利用するようになった。ばーちゃんは相変わらず頭はしっかりしていたが、少し様子がおかしくなっていた。夏でも寒がるようになり、窓を開けることを嫌がった。食事が好きだったのに、何が食べたいかときいても「野菜炒め」としか言わなくなっていた。まぁ野菜が好きなんだろ暗いしか思ってなかった。そして鼻血が止まらなくなり、入院した。もともと持病があり、血液の流れをよくする薬を飲んでいたから、ちょっと出血が多かったようだ。ICUに入ったが、しばらくすると退院できた。

しかし冬になり、気が付くと四六時中切っていた紙も、あまり切った形跡がなくなっていた。いつものソファに座って、朝昼も電気をつけなければ真っ暗な部屋にもかかわらず、電気もつけないことがあった。むくみもひどくなり、髪もいつ洗ったかのわからないような状態で、薄くなっていた。暖房器具で低温やけどしてもあんまりわかっていないようだった。祖父は相変わらず耳が遠いので、食べたいご飯や家の様子を聞くときはばーちゃんに聞いていた。しっかりして返答はあるが、力のない声だった。12月15日、夕飯のリクエストは聞いた時も「豚汁と野菜炒め」だった。母にラインで伝えると、「また?」と言われた。私も深く考えず、「それしか思いつかないんだろう」と言った。

18日火曜、仕事を終え帰宅するとおばの車が止まっていた。家を建てる契約書をもって、我が家に見てもらいに来ていた。おばの車はエンジンがかけられ、車内のテレビの明かりが窓から見えた。ばーちゃんが乗っているんだろうと思ったが、声はかけずに家に入った。ばーちゃんはおばが出掛けるたびについていくのが好きだったが、降りるのはおっくうでいつも乗っているだけだった。家の中では契約のことについて父とおばがダイニングテーブルで話しており、私と母は早くどいてくれないかなーなんて思いながらリビングで飯を食った。おばがかえったあと、ばーちゃんが車に乗っていたことを告げると母は知らなかったようで、とても驚いていた。

翌19日水曜、ばーちゃんはむくみがひどくなったため急遽入院した。帰宅後にそのことを知らされた私は、ほーんと気の抜けた返事をした。まぁちょっと入院しただけだろくらいにしか思ってなかった。家族の連絡先に私のも書いといてと言ったが、ばーちゃんが死ぬだなんて思ってなかった。今思うと、書いといてといった割には、電話を撮るのが一番遅かったから、本当に役立たずで申し訳ない気持である。

そして明くる朝、永眠した。